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スリリングの中に、生きていきます

まともな日常

ひとつの「信念」のようなものが、昔から僕の中には存在している。「幼き頃に周りから受けた影響は、その後の人生の、あらゆる場面で大きく作用することとなる」ということだ。普段の関心事、運動量、音楽の嗜好…これらが人それぞれ違っているのは、たとえば小さい頃に見ていたアニメだったり、自宅と公園の距離だったり、ドライブ中にカーオーディオから流れていた曲だったりが微妙に違ったからなのだ。またそれを、(不満がない限り)疑うこともなく無意識に、皆が「これこそ至上」と享受してしまったからなのだ、という持論である。僕はさらにこれを発展させ、根拠もなしに先天的なものの存在を否定してみせた。"生まれつき"なんてものはどこにもない、すべて山崎まさよしのあのフレーズ「育ってきた環境が違うから〜」に集約されているとおり、いかに良い環境で育てられたかが大事である、と無我夢中で主張を繰り返していたのだ。そしてそこから、「話せば分かる」ではないが、自分の世界に相手を引っ張りこめば良いという結論に達した。やや自己中心的ではあるが、自分にとっても相手にとっても対処しにくい多少の違和感はイヤなものだし、気持ち良く円満なエンディングを迎えるためには、こちらからすすんで配慮することが大事だろう、という考えにも、基づいたものである。天使と悪魔なら、天使よりの考え方かな。

 

その一方で、「もともとの種族が違うから、性格が合わないのは仕方がない」と切り捨てる、偏見のような考え方が発動するときもある。コミュニケーションをとろうとも、どうしても会話のレベルの差異に戸惑ってしまい、理解不能。もっと酷いのは、典型的かもしれないが、その人が他人と話しているところを見て事前回避を企てようとすること。こうなってしまったら、しょうがない。もちろん相手に非は全然ないのだが、「一期一会」の精神やらをすべて忘れ、知らんぷりをして生きていこう、そう考えるようになるのだ。こういうところが、自分でも非常にタチが悪いと思っているし、反省点でもある。…こちらは完璧に、悪魔の考え方だろう。

 

気の合う友達も増えていき、特に学校生活は支障なく送れている。しかし、時々、この両者の考え方のはざまで悩むこともある。どうしても会話が続かないときがあるのだ。気長に待ち、譲歩して理解することこそが正義なのか、自己を強く主張しマイペースに生きていくことこそが正解なのか。その前に、何人くらいと友達になればいいのか、という根本的な疑問もある。結局、正解なんてないだろうし、こう計画的に「友達作り」をすすめていくのは自分でも恐ろしくなるし、いつも考え過ぎだとは言われるのだが、こうやって文章にしてみると新鮮である。