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パワー・オブ・ミュージック

旧ブログ(エキサイト)

今日の小論文の授業は、非常に興味深かった。授業参加の義務である「予習」をしていかなかった劣等生な僕でも、そんなことはよくわかった(まあ以前にも書いたとおり、この授業は終了後毎回少し頭が良くなった「気がする」のだが)。取り扱ったのは、「サルトルの問い」という課題。文学部の問題で、端的にいえば、「文学のちから」とは何か、が訊かれていた。戦争などの非常事態に陥いって心の余裕がない者に、また、飢餓などで死んでいった名も知らぬ者に対して文学は何ができるのか。サルトルの考えと、筆者(岡真理氏)の考えが対比になっていたのである。模範解答は、筆者の考えが軸におかれた書き方がされるべきであったため、当然先生はそれに近づけるための書き方を詳解してくれたのだが、そのプロセスにおけるサルトルの考えの詳しい分析は、今一度この課題を振り返りたいと思う強いきっかけとなった。そして、今こうして文章に落とし込むことで、理解を深めようと思っている。


文の構成を追うと、まず、サルトルの考えが紹介されていた。サルトルは、「アフリカでこどもが飢えているときに、文学は何ができるか」という問いの裏に、文学の無力さを嘆いていた。現地の人にとっては、文学作品よりも今すぐ空腹を満たすことのできるパンや平和が求められている―つまり、文学は戦争のような異常時ではなく、平時でしか享受されない、と諦めをみせているのだ。筆者はこの考えの背景に、サルトルですら排除できなかったエスノセントリズム(自民族中心主義)、オリエンタリズムがあると指摘をしていた。乱暴に言えば、異常時において読書をすることは(その状況に遭遇している人にとって)何のメリットもない、そう信じきっていたということである。そして、筆者の主張。詩人の黒田喜央がひもじさから逃れるために文学作品を読み漁ったと言う話、2002年にイスラエル軍によって侵攻されたベツレヘムの街に住む少女の「来る日も来る日も家に閉じ込められて、気が変になりそうです。本を読んだりして、なんとか気を紛らわしています」という言葉をもとに、異常な時こそ文学は人間としての尊厳を回復させることができる、という方向へ話が展開されていく。
 
そして、もう1つ大事なポイントとして、死者の人間としての尊厳はどこへ、という議論があった。ドイツの哲学者アドルノが、「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という言葉を通じて行った、他人の不幸を食い物にする文化への批判とは、対照的に存在する戦争文学、戦争写真についてどう考えるか、である。名も知らぬ人を取り上げることによって、人の生の記録を残すことが物語の執筆もしくは報道写真の撮影の目的である。しかし、それは同時に「不幸ビジネス」として成立してしまっているのだ。飢餓に苦しんでうずくまっている少女を、巨大なハゲワシが鋭く狙っている「ハゲワシと少女」は、偉大な新聞報道および報道写真に送られるピューリッツァー賞を受賞した。しかし、受賞によって大金を得たカメラマンのケビン・カーターは受賞後すぐに、自殺してしまったらしい。動機については、タイム誌における「なぜハゲワシの存在に気づいていながら、すぐにハゲワシを追い払わず、シャッターを切ったのか」という批判の影響があったそうだ。
 
さて、そろそろ振り返りはこれくらいにして…文を読んでいて、ひとつ思い出したことがあった。東日本大震災の時の、深瀬慧(当時は"世界の終わり"で、本名表記だった)の「僕はそんな感情的じゃないので、曲を作ろうとは全然思わなかったし。ギター持つよりシャベルを持とうと思ったし、マイク握るなら、おにぎり握ろうと思ったし。パワー・オブ・ミュージックみたいなことは思ってないんですよね」という発言である。当時、生存者や死者の確認作業が少し落ち着いてきたとき、テレビでは「音楽のちから」が毎週もてはやされていた。事務所のつながりで復興支援曲の制作、被災地から音楽の生放送。そういう類のもので溢れていた時期に発されたのがこの言葉だったから、周りに流されない意志の強さなどにいたく感動し、記憶していたのである(勿論こういうアーティストは他にいないとは言い切れないが)。そして今、この発言はきわめてサルトル的であると思った。「そりゃまあ、音楽なんかじゃ何にも変えられないのかもしれないけど」と歌うように、音楽の無力さをどこかで悟っているからこそ、口に出た考えなのかもしれない。僕は、深瀬のこの考え方が、大好きである。
 
ただ、先ほどのタイム誌の議論が存在するように、この考えがいかなる時も正しいとは僕も思わない。たしかに、音楽で得た収益は被災地支援のための義捐金になっているし、この発言は本当に音楽に励まされたことのある人への侮辱だと捉えることもできる。しかし、この発言をこう考えてみるのはどうだろう。深瀬は「アーティストだから作品で支援するのが当然だ」という風潮に警鐘を鳴らした。一ファンの都合が良すぎる解釈かもしれないが、とりあえず僕は彼の考えを支持したい。