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ブランディング体質

 ブログのレイアウトと、ヘッダー画像部分を変更した。オリジナルのヘッダーデザインを手掛けるのは、何年ぶりになるだろうか。ぼくがまだブログ初心者の頃、そのような機能を知ってから飛びつくように変更し、事あるごとにそれを少しずつ更新していったのを覚えている。もちろん、描画ソフトはPhotoshopではなく、Windowsの「ペイント」の機能。ピクセルレベルの移動を十字キーでできることは知っていたので、大したソフトでもないのにやけにこだわった。

 今回は、デザインテンプレートのデフォルトの色がターコイズブルーに設定されていたため、タイトルの「Episode.」部分はそれに合わせてみた。それだけでは寂しいので、副題とsince部分に加え、少しポップを帯びた月のシルエットを背景に挿入した。いちいち説明するのはナンセンスだが、これは「夜にベッドで一人でこっそり読むのにふさわしいブログを目指したい」という思いを込めている。

 タイトルロゴは、はじめてそのコンテンツに触れる人が雰囲気をつかむために享受する判断材料のひとつだ。フォントに限定する話ではないが、たとえばそのロゴが明朝体であるだけで「シック」「高級感」「堅苦しい」というイメージ、ポップ体であるだけで「若者・子供向け」「親しみやすい」「安っぽい」というイメージを持つようになる。

 

 もちろん、この"アイデンティティを重要視する姿勢"はブログに限らず、メディアに関わるものすべてが意識的に取り組む点である。このようなことを、世間では「ブランディング」と呼ぶらしい。三省堂 大辞林を引いてみれば、

経営販売上の戦略として,ブランドの構築管理を行うこと。会社商品サービスなどについて,他と明確に差別化できる個性イメージ信頼感高級感など)をつくりあげる。 → ブランド 

 と説明されている。理解するにはそこまで難しくない概念だ。

 さて、日常をつらつらと綴る大学生の日記が、経済用語の「ブランディング」を意識し始めたという、なんとも言えない「シュールさ」が、少し感じ取れるだろう。ひょっとするとこれは、ひとつ上の代が「就活解禁」を迎えたことで危機感を感じるあまり、自分自身の売り込みに積極的な体質になってしまったということだろうか。

「制約」と、目指すべきスタイル

https://www.instagram.com/p/0CYIfUndg6iqxkGg2w_qOgb0NsyRuNKucIVQA0/

  はてなブログには、『今週のお題』という機能がある。読んで字の如く、運営スタッフが決めたお題が週ごとにトップサイトに出題され、それに対してブロガーたちが思うことを自由に書くという、一種の"小さな祭典"のようなものだ。

 僕は前々からその存在は知っていたものの、なかなか手を出せずにいた。そもそも長い間ブログを書いていなかったから「なかなか」なんていう言葉もウソくさいが、少しだけ距離を置いておきたかったというのは事実だ。それは、あるお題を決められてしまうと、自分の満足する分量の記事を書けないのではないかという危惧があったからである。ブログとは日記のようなものであり、他人に影響されないプライベートゾーン(しかし、全世界には公開されているという矛盾を楽しむ)であるべきだ、というのが持論だ。

 でも最近、その制約がもしかしたら楽しいのではないか、という考えを持つようになった。率直に考えれば、良いネタが思い浮かばなかった時、そんなブログ文化はたいへん頼りになる存在である。しかも、もっとツッコめば、あるお題について深く考えていくうちに、自分がふだん立ち寄ることのなかった世界に飛び込むことができるという可能性がそこには秘められている。『今週のお題』のような「制約」こそ、ありがたく自分に課してみるものなのかもしれない。

 

 この構図を「クリエイティブな仕事」に当てはめてみるとしよう。わかりやすい例は、企業とのタイアップソングをつくるシンガーソングライターといったところかもしれないが、今回は僕に卑近な映像制作に置き換える。

 次の2つのスタイルのうち、どちらの方が理想的であるか。

  • 一旦作ったものに対して多数のひとから評価やアドバイスを受け、それらをもとにさまざまなところを修正していくスタイル。最初に自分が作りたかったものとは大きくかけ離れてしまうかもしれないが、それでも我慢する。
  • 一旦作ったものに対して多数のひとから評価やアドバイスを受けるが、それらのひとつひとつに補足の説明をつけて対応し、最終的には自分が作りたいように作って完パケにするスタイル。自分が作りたいものを作ることができた。

 僕の意図するように、文体的なバイアスをそれぞれ逆方向にかけてみた(まるで、自動車免許の問題を作っている感覚だ)ところ、少し露骨になってしまった。一見後者の方が理想的かもしれないが、もちろん、僕が支持するのは前者のほうである。その理由として、キーポイントになる部分は「自分が作りたかったもの」だ。

 「自分が作りたかったもの」って、どのようなものなのだろう。多くは経験に比例するため、自分の狭い知見の中から生み出された、とても陳腐なアイデアのものということになってしまう。そうすると、そのひとはすごく損をしているだろう。これは、年齢で差別をするということでもなく、ただ単純に他人が受け取る印象について何も真摯に検討を試みないスタイルが、伝達手段のメディアという役割を持つ映像制作の場において、如何なものかということである。

 いま、その評価やアドバイスを理解できなくても、それは自分がまだ不勉強であるということなのだと自分の中で結論づける。数年経って、「あの時こう言われたのは、こうだったからだ」という理解ができれば、それはとても喜ばしいことだ。

 

 しかし、クリエイティブな仕事はアーティストとしての、「今、私がやりたいことを、どうしても実現させたい」という一面は尊重されなければいけない。「デザイン」と「アート」は違う、という議論はもう何年も前からされていることだと思うが、制作者のセンスが出てしまうようなこの職業は、アーティスト的側面と別にすることはできない運命にある。そこで、以下のスタイルはどうだろう。

  • 一旦作ったものに対して多数のひとから評価やアドバイスを受け、それらをもとにさまざまなところを修正していくスタイル。最初に自分が作りたかったものとは大きくかけ離れるかもしれないが、与えられた条件のなかでいかに自分らしさを出すことができるか、努力する。また、それを楽しむ。

 意外に重要なのは、最後の一文である。他の人に思わぬ評価を受けることで、落ち込み、戦意を喪失し、それに対応した修正のみをする。そして、まるで自分の作りたい作品を作ることができなかったかのように、その仕事に関わったことをひどく後悔する。これが、本当にもったいない。もしかしたら、違うアプローチが可能だったかもしれないのに、制作者がやる気を失くしてしまうと、その映像を見た人にもその気持ちが伝わってきてしまう。

 

 少し具体性のない話になってしまい説得力に欠けるが、最近日々思うことをどこかで整理しておきたくて、「制約」という言葉からここに、その、思いの丈を綴ってみた。ひとことでいえば、「創意工夫の大切さ」なのかもしれない。

 では、どうしたら創意工夫ができるようになるのか。僕は、ひたすら優秀な作品を見て分析をすることに尽きると思う。僕は、そのために勉強を続けている。

クレジット

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 ずっと家にいると怠惰な生活をしてしまう、と外に出てみるも、結局経済的理由から行動範囲は徒歩圏内に限られてしまう。こういう時に意外な発見が、とか、意外な出会いが、とかそういうこともあるかもしれないけれど、知っている道しか通らない僕にはそんな運命は舞い降りて来ない。1000円以下のランチ、ご飯ものならいつもの味噌かつ定食の大盛りに落ち着くし、それ以外ならマック。いわゆる「開拓」はする気力が起きない。チャンスを掴みに行くことは、しようとしない精神なのだ。

 だけれど、久しぶりに書店を覗いてみると面白い広告を発見した。どうやら「ショートショート大賞」というものがあるらしい。昨年に引き続き第2回で、締め切りは明日2月15日なんだとか。キャッチコピーは「原稿用紙1枚でも小説だ。」。

 

 僕はこの広告を見た時、「そうだ、この怠惰な生活を小説におさめてやろう」となぜか思った。フリクションの替え芯を買おうとして、税込130円の商品をレジに持って行こうとしたら、見間違いだったのかそれは300円以上で、持ち金じゃ間に合わず恥をかいたこと。味噌かつを食べている時、やけに隣のジジイがこちらを窺ってくること。YouTubeはてなブログばかり見ていて、ついに勉強を始めたと思ったら部屋の整理からはじまること。一日、いや数時間で起きたどんな細かいことでも描写してやろうという意気だった。

 でも、すぐにやめようと思った。たしかに、こうやって人と比べると長文のポエムブログを書く僕なら、原稿用紙を何枚も埋めることなんてたやすいかもしれない。日本語の読みやすさにも、自信がある。でも、やるなら、もうちょっとクオリティをあげたいし、時間をかけたかった。

 

 応募には作者名が必須項目である。自分の名前を冠す時、同時に他人からの評価が連帯する。「お前はそのようなものをコンテスト応募で出してくるのか」、そのような誰かからの視線が怖い。これは僕の性なのかもしれないし、もしかしたらクリエイターとしては当たり前に思うことなのかもしれないけれど、自分の名前がクレジットされることに僕は人一倍敏感なのである。たとえそれが自主制作でも。

 

 とはいえ、来年は、応募を考えてみようかな。別に作家になる、とかそういう野望を抱いているわけではないけれど、文の実力がどれくらいのものなのか誰かに計測してもらいたいというのはあるから。