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言葉は誰のもの?

マイオピニオン

 ぼくの生活ぶりから予想できるかもしれないが、一時期コピーライターとかそういう類の、"言葉で魅せる"職業を目指していた時期があった。「不思議、大好き。」「おいしい生活。」。糸井重里とか仲畑貴志とかそういう偉大なる先人たちの、80年代の独特な言葉づかいに魅力を感じ取ったのだ。渋谷駅地下にポスターが貼られている"コピーライター養成講座"とか、気になっちゃう。

 その思いには純粋に、たくさんの言葉たちをミックスして誰も見たことがない世界を表現したいという欲求もあっただろうし、たくさんの言葉たちを知っていることをより多くの人にアピールできる、という自己顕示欲もあったと思う(もちろん、そんなことを考えているうちは二流であるということに後々気づくのであるが)。

 人気Twitterアカウントとして「Copy writing」というものがある。定期投稿設定をしているのか、手動でツイートをしているのかは分からないが、一定の頻度で心に響く言葉たち・デザインをつぶやいてくれる。誰の言葉か出典名もついているが、それがたまに「2ch」とか「VIP」とか不特定であるのが趣があって面白い。


 http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1601/27/news156.html 

 しかし、以前その「中の人」がインタビューを受けて、その考え方に激怒したネット民がそのアカウントをスパム報告し、アカウント凍結に追い込むという事態が発生した。そもそも、この記事のタイトルの書かれようもひどい。「パクツイで人気を得た「Copy writing」がインタビューを受け炎上 フォロワー数が激減する事態に」である。ネット民には受け入れられていない様子だ。
 そこで、一つ疑問が浮かぶ。言葉、もっと限定すると、コピーに著作権って存在するべきなのだろうか。広告などといった多くの人に伝聞される言葉に、所有権とかあるものなのだろうか。そもそも日本語って誰のものなのだろうか。
 数百年後にはきっと、言葉だけが残る。「誰が言ったか」なんて、重要じゃない。「よみひと知らず」になればいい。
 
 しかし、やっぱりいざ発言者になってみると、「自分が言った」とかは一番大事にしたいところ。パクられたら怒る、"自作自演"に固執するのはいたって普通の感情だと思う。このモヤモヤが、ぼくが文の職業に就くことを、思い留ませるのである。

ブランディング体質

マイオピニオン

 ブログのレイアウトと、ヘッダー画像部分を変更した。オリジナルのヘッダーデザインを手掛けるのは、何年ぶりになるだろうか。ぼくがまだブログ初心者の頃、そのような機能を知ってから飛びつくように変更し、事あるごとにそれを少しずつ更新していったのを覚えている。もちろん、描画ソフトはPhotoshopではなく、Windowsの「ペイント」の機能。ピクセルレベルの移動を十字キーでできることは知っていたので、大したソフトでもないのにやけにこだわった。

 今回は、デザインテンプレートのデフォルトの色がターコイズブルーに設定されていたため、タイトルの「Episode.」部分はそれに合わせてみた。それだけでは寂しいので、副題とsince部分に加え、少しポップを帯びた月のシルエットを背景に挿入した。いちいち説明するのはナンセンスだが、これは「夜にベッドで一人でこっそり読むのにふさわしいブログを目指したい」という思いを込めている。

 タイトルロゴは、はじめてそのコンテンツに触れる人が雰囲気をつかむために享受する判断材料のひとつだ。フォントに限定する話ではないが、たとえばそのロゴが明朝体であるだけで「シック」「高級感」「堅苦しい」というイメージ、ポップ体であるだけで「若者・子供向け」「親しみやすい」「安っぽい」というイメージを持つようになる。

 

 もちろん、この"アイデンティティを重要視する姿勢"はブログに限らず、メディアに関わるものすべてが意識的に取り組む点である。このようなことを、世間では「ブランディング」と呼ぶらしい。三省堂 大辞林を引いてみれば、

経営販売上の戦略として,ブランドの構築管理を行うこと。会社商品サービスなどについて,他と明確に差別化できる個性イメージ信頼感高級感など)をつくりあげる。 → ブランド 

 と説明されている。理解するにはそこまで難しくない概念だ。

 さて、日常をつらつらと綴る大学生の日記が、経済用語の「ブランディング」を意識し始めたという、なんとも言えない「シュールさ」が、少し感じ取れるだろう。ひょっとするとこれは、ひとつ上の代が「就活解禁」を迎えたことで危機感を感じるあまり、自分自身の売り込みに積極的な体質になってしまったということだろうか。

「制約」と、目指すべきスタイル

マイオピニオン

https://www.instagram.com/p/0CYIfUndg6iqxkGg2w_qOgb0NsyRuNKucIVQA0/

  はてなブログには、『今週のお題』という機能がある。読んで字の如く、運営スタッフが決めたお題が週ごとにトップサイトに出題され、それに対してブロガーたちが思うことを自由に書くという、一種の"小さな祭典"のようなものだ。

 僕は前々からその存在は知っていたものの、なかなか手を出せずにいた。そもそも長い間ブログを書いていなかったから「なかなか」なんていう言葉もウソくさいが、少しだけ距離を置いておきたかったというのは事実だ。それは、あるお題を決められてしまうと、自分の満足する分量の記事を書けないのではないかという危惧があったからである。ブログとは日記のようなものであり、他人に影響されないプライベートゾーン(しかし、全世界には公開されているという矛盾を楽しむ)であるべきだ、というのが持論だ。

 でも最近、その制約がもしかしたら楽しいのではないか、という考えを持つようになった。率直に考えれば、良いネタが思い浮かばなかった時、そんなブログ文化はたいへん頼りになる存在である。しかも、もっとツッコめば、あるお題について深く考えていくうちに、自分がふだん立ち寄ることのなかった世界に飛び込むことができるという可能性がそこには秘められている。『今週のお題』のような「制約」こそ、ありがたく自分に課してみるものなのかもしれない。

 

 この構図を「クリエイティブな仕事」に当てはめてみるとしよう。わかりやすい例は、企業とのタイアップソングをつくるシンガーソングライターといったところかもしれないが、今回は僕に卑近な映像制作に置き換える。

 次の2つのスタイルのうち、どちらの方が理想的であるか。

  • 一旦作ったものに対して多数のひとから評価やアドバイスを受け、それらをもとにさまざまなところを修正していくスタイル。最初に自分が作りたかったものとは大きくかけ離れてしまうかもしれないが、それでも我慢する。
  • 一旦作ったものに対して多数のひとから評価やアドバイスを受けるが、それらのひとつひとつに補足の説明をつけて対応し、最終的には自分が作りたいように作って完パケにするスタイル。自分が作りたいものを作ることができた。

 僕の意図するように、文体的なバイアスをそれぞれ逆方向にかけてみた(まるで、自動車免許の問題を作っている感覚だ)ところ、少し露骨になってしまった。一見後者の方が理想的かもしれないが、もちろん、僕が支持するのは前者のほうである。その理由として、キーポイントになる部分は「自分が作りたかったもの」だ。

 「自分が作りたかったもの」って、どのようなものなのだろう。多くは経験に比例するため、自分の狭い知見の中から生み出された、とても陳腐なアイデアのものということになってしまう。そうすると、そのひとはすごく損をしているだろう。これは、年齢で差別をするということでもなく、ただ単純に他人が受け取る印象について何も真摯に検討を試みないスタイルが、伝達手段のメディアという役割を持つ映像制作の場において、如何なものかということである。

 いま、その評価やアドバイスを理解できなくても、それは自分がまだ不勉強であるということなのだと自分の中で結論づける。数年経って、「あの時こう言われたのは、こうだったからだ」という理解ができれば、それはとても喜ばしいことだ。

 

 しかし、クリエイティブな仕事はアーティストとしての、「今、私がやりたいことを、どうしても実現させたい」という一面は尊重されなければいけない。「デザイン」と「アート」は違う、という議論はもう何年も前からされていることだと思うが、制作者のセンスが出てしまうようなこの職業は、アーティスト的側面と別にすることはできない運命にある。そこで、以下のスタイルはどうだろう。

  • 一旦作ったものに対して多数のひとから評価やアドバイスを受け、それらをもとにさまざまなところを修正していくスタイル。最初に自分が作りたかったものとは大きくかけ離れるかもしれないが、与えられた条件のなかでいかに自分らしさを出すことができるか、努力する。また、それを楽しむ。

 意外に重要なのは、最後の一文である。他の人に思わぬ評価を受けることで、落ち込み、戦意を喪失し、それに対応した修正のみをする。そして、まるで自分の作りたい作品を作ることができなかったかのように、その仕事に関わったことをひどく後悔する。これが、本当にもったいない。もしかしたら、違うアプローチが可能だったかもしれないのに、制作者がやる気を失くしてしまうと、その映像を見た人にもその気持ちが伝わってきてしまう。

 

 少し具体性のない話になってしまい説得力に欠けるが、最近日々思うことをどこかで整理しておきたくて、「制約」という言葉からここに、その、思いの丈を綴ってみた。ひとことでいえば、「創意工夫の大切さ」なのかもしれない。

 では、どうしたら創意工夫ができるようになるのか。僕は、ひたすら優秀な作品を見て分析をすることに尽きると思う。僕は、そのために勉強を続けている。