チョロい日記

自由に書けと言われた気がしたので自由に書きます

ブランドがテキストに及ぶなら

 「ほぼ日」のアプリが出たらしい。インターネットの成長と共に歴史を歩んできたこのマガジンサイトがついに新しいフェーズに突入した…とは、どこのニュースサイトにも書かれていなかったが、僕はこれを大きな「発明」だと捉えている。

 手帳でお世話になっている手前、糸井重里さんの言葉に多少なりとも心を動かされてきたことは認めざるを得ない。少し過剰で気持ち悪いと感じてしまったら、それこそが彼が築き上げてきたブランドなのだからと、鼻をつまめばよい話だ。

 そんな、僕にとって愛すべき存在の『今日のダーリン』とやらは、今まで、わざわざ「ブックマーク」とか「お気に入り」とかからしか飛ぶことのできないWebサイトベースのものであった。サイト開始以来、今まで一日たりとも休まずに更新されているというのに、このスマホ社会の現代において、ユーザー・インタフェースが最悪であるから、惜しかった。もちろん、Webサイトをホーム画面に登録することは可能であるが、それだと、何か違った。

 こうして、アプリとして、この新聞と対面できるとは思いもよらなかった。気軽に毎日読むことができる。『Togetter』だったりTwitterの『モーメント』だったり『はてなブログ』のTOPだったり、そういう個人発信のユルい記事とかを読むのが日課な僕にとって、そんな仲間がひとり増えるのは、生活の質がかなり向上する。

 

 ところで、このアプリのランダム機能というのが結構ユニークである。下に画面をスワイプしていくと、次から次へとアーカイブ記事が降ってくる。正方形のサムネイル画像一枚をもとに、読みたい記事を探させるという仕掛けもまた良い。 

 試しに、数年前の記事を読んでみる。

 連載とか特集とかは、まず、はじまりのページのようなものが僕らを出迎えてくれる。本音を話せば、実は僕はここがちょっとウッとキテしまう。糸井さんが書いていないにも関わらず、編集スタッフが糸井さんの文体を真似て、興味をひこうとしているところがチョット。どうやら、あの独特な口語体は、糸井さん個人の専売特許ではないみたいだ。

 これが、スタッフの糸井さんへのリスペクトや愛情に起因するものであれば、間違いなくとても素晴らしいことだ。きっとおそらく、そういうことなのだろう。ただ万が一、文体にまで、社内に手厳しいルールが存在しているのであれば…。

 コピーライターの下で働く方々は、何らかのブランドを守るのに必死になる。それは何も、糸井さんだからではない。ひとつひとつの言葉に敏感になるということで、素直な文章を書けない。まあ、洗脳されていたらラクなのかもしれないが…ともあれ、そんな中で生きるのは、大変だなあと思った。

映像の授業を受け持つときに

 僕が映像関連に携わるようになって3年。サークルのような、大学公認の有志団体のようなプロダクションに所属して3度目の春である。今春、新たに入学した1年生には、機材の取り扱い方についてとか、番組の作り方についてとかを先輩ヅラして教えるようになった。「自分は決して完璧じゃないけど、教えなければ何も始まらない」というスタンスで、はりきって取り組んでいるつもりだ。

 その過程で先々週くらい前に、はじめて「教壇に立つ」という経験をした。研究発表だったり、「一言」とか「お知らせ」とか程度のものはむしろ積極的に行ってきたが、授業を受け持つということは僕にとって身震いするような心持ちだった。

 平静を装って、授業を開始しようと思ったそばから、プロジェクターが故障。先週まで普通に使用されていたものが、砂嵐を表示するのだからかなり焦った。再起動するも時間が結構かかって、それまではトークでしゃべり倒そうとしたけれど、そういうアドリブは全く効かない。なんてったって、授業だから。楽しいお話を聞いたところで受講生はポカーンなのだ。冷や汗が頰をつたったのを、覚えている。

  

 授業を行うにあたって、一番恐ろしいのが「自分の持ち得る知識が、ひろく直接共有される」という点である。冒頭にも書いた通り、僕はまだ映像をはじめて3年しか経っていない。「石の上にも三年」ということわざがあるが、されど3年である。社会に出たら3年なんてあっという間で、まだまだ若手社員レベルだろう。

 でも、一度引き受けてしまったら、覚悟は決めなければいけない。内容に責任を持たないと、その内容の信用度が下がる。授業内容が薄過ぎると、講義形式で教える意味がないし、逆に濃すぎれば1年生のレベルに合っていないとして、またポカーン状態だ。

 どうしようどうしようと一人唸っていた時、ひとつアイデアとして思いついたのが、「プロの作品を見せる」ということだ。プロの作品こそが、実は一番の教材である。そこに授業という視点を置いてあげるだけで、ほかには何もいらないのだ。ここでいう「授業の視点」とはカット数分析とかショットサイズ分析とかだけれど、映像を見るのなら受講生にとって気楽だし、フランクで親しみを持ちやすい。

 

 普段の映像の授業が、だいぶ映画鑑賞会に陥りがちになる気持ちが理解できた。映像制作は、難しい言葉を暗記するより、肌感覚で理解する、もしくはプロの作品からアイデアをパクるのが近道な分野だということを、この経験でこちらも改めて理解することとなった。もちろん、覚えるべきものは覚えなきゃいけないけれど。

テキストサイトストーリー、未経験者は語る

 精神状態は悪くない自信がある。少し前の多忙だった頃と比べると、すごく安定した思考判断ができるし、体に何も悪いところはない。楽しいことも辛いことも、バランスよく僕にやってきてくれる。金銭面では相変わらず苦戦を強いられているけど、潔く諦めるようになった(おそらく、正常な感覚に戻っただけ)ので、それはそこまで影響してなさそうだ。交遊費を少し抑えるだけ。

 でも昨日、また急にブログデザインを一新したくなった。正確に言えば、一昨日の深夜から昨日の朝にかけて(そうだ、ちょっと生活リズムは崩れかけているかもしれない)。何かを起こそう・何かを変えようという原動力は、だいたいそんな真夜中にちょうどピークを迎え、そして我慢しきれなくなって、それが正しいかどうかも分からないまま、とりあえず行動を起こしたくなる。部屋の掃除とかデータの整理とか、その一種だと思っている。

 

 苦労してつくったヘッダー画像とかをあっけなく消して、以前よりもさらにシンプルなデザインにした。記事の更新についても、自分の中にある曖昧なガイドラインを数ヶ月ぶりに変更した。「なるべく多く記事を更新する」「自分が思っているよりも、無理して、自分の好きなことを書きまくる」、と。この、後者が難しい。

 とあるブログのとある記事で「PV数とかアフィリエイトとかの誘惑は、いずれブログを単なるライターの仕事に変化させてしまう」という記述を見た。我に返れば、僕は「1記事に1枚は、なにかしらの記事を掲載しよう」とか、更新の際に必ずそういうデザイン性を無意識に考えていたのかもしれない。別に、キュレーション的意味合いのあるサイト運営を目指しているわけではないのに。

 テキストサイト文化、という言葉がある。インターネット黎明期、日常を写真や映像に頼らず、文章のみで見る人を微笑ませよう、というコンセプトが暗黙に共有されていたそうだ。自分は当時まだ幼かったので、つい最近までその文化の存在を知らなかったし、その頃と現代のインターネットは大きく変化しているのも一目瞭然である。でも今だからこそ、あえてそれを少しだけ意識したような、文章芸・文芸的な面白さをブログに見出していきたい、と思ったのである。まるで、アフィリエイト自己啓発推進運動・キュレーションで溢れかえっている(という偏見を起こしやすい)、はてなブログの改革を建前にしたかのような言い草だけれど。

 

 とはいえ先述したように、深夜の発想とはなかなか大胆である。いずれまたオシャレなヘッダー画像を作っているかもしれないし、もしかしたらアフィリエイトに魂を売っているかもしれない。けど、ブログくらいは、気の迷いでどんどん弄っても構わないかなと思っている。ここは「自分が書かなければおそらく誰かが書く日記」を惜しくもリアルタイムで経験できなかった僕が、自由に書いていくブログと決めたのだ。