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浮遊の正体・2

  原因は不明のまま、仕事が終わった。もはや、しばらく忘れていたといっても間違いではない。でも、終電、同じようにJRに乗車する時、ふとその出来事にある曲のことを重ねたくなって、聴いていた曲がある。ユーミンの『リフレインが叫んでる』。

 先日見に行ったユーミンのツアー「宇宙図書館」では、この曲が披露された。たしか『ひこうき雲』、また、その前数曲、静かな曲が連続したあと、MCをはさんで突然の衝撃的なイントロだった。ライブ全体では、この曲が大きな場面転換を担う大事なシーンでもあると言えよう。

 そしてMCの内容は、本と夢の関係。ベットライトで本を読んでいるとやがて睡魔がやってきて、その本の内容が夢に反映されることがある、といったユーミン経験談である。もっと深く伝えれば、「突然、文字が踊りだし、空中浮遊をする」という感覚らしい。この曲では、その内容をテーマにした映像がバックに投影されていた。

 

 単純に、その演出がとても威力的でカッコ良かったということ、前からこの曲のライブバージョンが好きだったことなどの理由もあるが、それよりも歌詞、もしくは文字単位という深いレベルで、ひとつひとつ噛みしめることのできる、この映像が印象的だった。「どうして どうして僕たちは 出逢ってしまったのだろう」という文字が踊りだす。それだけなのに、僕は、そこに深い感動を覚えていた。

 

 『リフレインが叫んでる』は曲も歌詞も文学的である、と最近感じるようになった。もしくは、曲と歌詞が深い次元でリンクしていて、それがひとつの大きなテーマとして享受できるということなのかもしれない。

 1番Aメロ「いつか海に降りた あの駐車場にあなたがいたようで」。情景が当たり前のもののように浮かんでくるにもかかわらず、海に降りることのできる駐車場は、日本にひとつしかないそうだ。さらに、ユーミンはそのことを後日リスナーに教えられたとのこと。つまり、題材はユーミンの完全なるイマジネーションの中なのである。

 イマジネーションであるからこそ、曲の主人公、およびそれに自分を重ねるリスナーの感情は、複雑な構造になりやすい。そして、繊細な女性の心持ちを表現させたらピカイチのユーミン。ひとつひとつの言葉は、リスナーの想像以上に几帳面に扱われている。そして、ひとつひとつの音符もコードも同様に、絵の具のように使われていく。

 

 昨日朝の出来事は、『リフレインが叫んでる』が表現した総合芸術に近いものを目の当たりにしたようだった。たとえそれが報告されている「バグ」だったとしても、自分にはドラマチックに見えてしまった。

浮遊の正体・1

 

 昨日は、はじめて申し込んだ派遣バイトのために、とあるアリーナへ。自宅からかなり遠く離れているけれど、もちろんそこでのライブ鑑賞は何度もしているので、行き方はなんとなく分かる。それより、朝早くの集合、そして前日緊張のあまり眠れなかったというのもあって、早朝から一駅、二駅と寝過ごしてしまうのではないかという不安のほうが強烈だった。結局は、それよりもさらに緊張が勝って、目はパッチリ開いたまま、あくびすら出なかったのだけれど。

 

 乗車中は、僕は世間の多くの大学生と同じように、スマートフォンの画面に釘付けだった。音楽プレイヤーやSNSはもちろん、位置情報を共有するアプリまでも楽しんでいた。

 いま振り返れば、たしかにそのときスマホは使い詰めすぎられていた、のかもしれない。裏の裏の裏であらゆるシステムが休むことなく、動いている。使い始めて1年が経過し、そろそろどこかがおかしくなってもおかしくない、老体のようなスマホだ。

 そろそろ違うアルバムにしようかなとプレイヤーをいじっていたとき、突然、プレイヤーの画面からホーム画面に遷都し、ホーム画面にあるさまざまなアイコンが揺れ始めたのだった。ひとつひとつのアイコンが揺れるのではなく、大きく上下左右円を描くように。まるで自分がめまいを起こしてしまったか、もしくはそれらのアプリケーションが生命を宿し、自由に動き回れる権利を獲得したかのように。

 

 結論を先に言うと、これはiPhone独特のバグらしい。復旧したスマホで調べた結果「バグ」の一言で片づけられたことは、今思うととても癪だ。なぜなら、今でもその動きを思い出すと、本当に怖くて、鳥肌がビッシリするから。ハリー・ポッターが、図書館で本を探して、適当に開いたら顔がすごい勢いで飛び出してくるみたいなシーンがあったような気がする。自分の感受性では、それが一番近しかった。

 実は、あまりにもそのような事例のヒット数が少なかったので、いまだ自分を疑っている。それこそ、寝不足や日々の疲れが原因なんじゃないか。それとも、その時にLINEで友達ともめていた怒りが体現してしまったんじゃないか。幻覚は、思いもよらないタイミングで来てしまうらしい。

 

(続く)

言葉は誰のもの?

 ぼくの生活ぶりから予想できるかもしれないが、一時期コピーライターとかそういう類の、"言葉で魅せる"職業を目指していた時期があった。「不思議、大好き。」「おいしい生活。」。糸井重里とか仲畑貴志とかそういう偉大なる先人たちの、80年代の独特な言葉づかいに魅力を感じ取ったのだ。渋谷駅地下にポスターが貼られている"コピーライター養成講座"とか、気になっちゃう。

 その思いには純粋に、たくさんの言葉たちをミックスして誰も見たことがない世界を表現したいという欲求もあっただろうし、たくさんの言葉たちを知っていることをより多くの人にアピールできる、という自己顕示欲もあったと思う(もちろん、そんなことを考えているうちは二流であるということに後々気づくのであるが)。

 人気Twitterアカウントとして「Copy writing」というものがある。定期投稿設定をしているのか、手動でツイートをしているのかは分からないが、一定の頻度で心に響く言葉たち・デザインをつぶやいてくれる。誰の言葉か出典名もついているが、それがたまに「2ch」とか「VIP」とか不特定であるのが趣があって面白い。


 http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1601/27/news156.html 

 しかし、以前その「中の人」がインタビューを受けて、その考え方に激怒したネット民がそのアカウントをスパム報告し、アカウント凍結に追い込むという事態が発生した。そもそも、この記事のタイトルの書かれようもひどい。「パクツイで人気を得た「Copy writing」がインタビューを受け炎上 フォロワー数が激減する事態に」である。ネット民には受け入れられていない様子だ。
 そこで、一つ疑問が浮かぶ。言葉、もっと限定すると、コピーに著作権って存在するべきなのだろうか。広告などといった多くの人に伝聞される言葉に、所有権とかあるものなのだろうか。そもそも日本語って誰のものなのだろうか。
 数百年後にはきっと、言葉だけが残る。「誰が言ったか」なんて、重要じゃない。「よみひと知らず」になればいい。
 
 しかし、やっぱりいざ発言者になってみると、「自分が言った」とかは一番大事にしたいところ。パクられたら怒る、"自作自演"に固執するのはいたって普通の感情だと思う。このモヤモヤが、ぼくが文の職業に就くことを、思い留ませるのである。